朝日神社の由来・歴史
鎮座地
御祭神
由 緒
伊勢の神宮の神領地(御園)であった、清洲城下、朝日郷に鎮座されていたが、名古屋城の築城に伴い、慶長16年の夏、特に徳川家康公の請願により、正室、朝日姫様の氏神様である当神社を城下町碁盤割りの守護神として、氏子共々本丸の真南の現在地に移築遷座された。
城下町碁盤割りの唯一の神社として、清洲越しの士民の崇敬をあつめた。 |
広小路の起こり
特に万治3年(1660年)の大火により、この碁盤割りのことごとが焼失し、武家屋敷にも類焼したため、防火帯として、道路(当時の道幅は参間)の拡幅(15間幅)を行なった。これが今の広小路通 りである。
それまで神社仏閣の境内で行なわれてきた、小屋掛けの芝居や見せ物等の興行、露店もこの広小路通 りで行なうことが奨励された為、人の集まる所となり、広小路通りが一大繁華街となり、当神社の門前町となった。 |
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参拝者の多い事
昭和の始め頃の県内神社(四千余社)の調査記録によれば、当社は4番目に参拝者の多いお社で名古屋市内では熱田神宮に次ぐ参拝者を数えた。 これは当時の環境にもよるが、特に夏場は行水もそこそこに夕涼みに涼を求めて、広い道を求めて出掛けたのが広小路である。 |
広ブラのこと
「お神明さん(当社のこと)まで行ってくるよ」と子供をつれて、毎日のように夕涼みに出掛けた話は戦後にまで聞くことが出来る。 近くには芸者街があり、その検番、置屋が軒を列ねていた。お座敷に出る前の綺麗どころの参拝も絶えずあって、参拝者の多い要因の一つと思われる。 |
特殊の神饌
伊勢の神宮の御園にご鎮座されていた関係で諸祭事も神宮に倣所が多く、特に三大祭と歳旦祭の神饌品は全て決められ、調理神饌とし、季節の事が考慮されて、品目が定められている。 例として中央の饌案に、先ずお箸をお供え、次に清酒、醴酒をそれぞれ三杯、盛飯を二、角餅を二、鯛、鮒、鳥肉、松茸、ミル、大根、百合根、青豆、昆布、干物、柿、塩、水を供える。 また正月は数の子、田作り、干柿、菜、など |
神社の合併
明治元年3月、明治政府は神佛判然令(神仏分離令)発令したため、当社より約二丁ほど東の寺の中に村社として鎮座されていた、子守神社・児宮神社を当神社境内に移築、遷座した。 従前の総代を引き続き置き、村社としたが、同一境内に郷社・村社別々に運営していたが色々と問題があって、協議の結果 、村社を摂社にすると共に総代制度を廃止、郷社として一本化した。 |
社名の改称
古くは単に神明社、広小路の神明宮、広小路の朝日神明宮と称したのを清洲越しを後世に伝えるために「朝日神社」と改称された。 |
氏子の区域替え
また城内から那古野神社、東照宮が旧藩校跡地に遷座されるに伴い、氏子区域も伝馬町、宮町(飯田街道)まで下がり、代わりに東は久屋町、武平町、南は南呉服町、南伊勢町、南大津町、南鍛冶屋町、南久屋町、南武平町、大阪町、七曲町が加えられて、栄町を中心に22ケ町の産土神(総鎮守)として、特に広小路通 りの夜の賑わいは、毎日がお祭のように露店が居並び灯火が明るく照らし、大変な人出があり、境内も拍手の音が耐えなかったという。 |
不浄除け
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江戸中期に建てられた不浄除けと称する透かし塀が現存している。これは昔神社の斜向かいに尾張藩の牢屋敷が在り、引立てられる罪人を神様に見せたくないとして、目隠し用として建てられたものと言い伝わる。 |
戦災・戦後復興
不幸にして先の戦災により本殿を始め主要建造物は全々く烏有に帰したが霊代(ご神体)は防災蔵に避難し、一部の宝物と共に安泰であった。その後、氏子崇敬者の熱意により復興奉賛会が結成され、昭和28年7月に御本殿、祭文殿、拝殿を始め末社5社が再建された。 また、昭和33年には市道の拡張に伴い、石の大鳥居、石垣、石灯籠、透塀の移築植栽が行なわれ戦後復興の完了をみた。 |
斎館新築
昭和54年10月には斎館と職舎(鉄筋コンクリ1、2階建、1部3階建)が竣工し、大祭を始め年中行事や氏子総代会等の用に供する事ができるようになった。 |
御社殿移築嵩上
昭和61年10月、昭和天皇御在位60年奉祝記念事業として、本殿、祭文殿、拝殿を後方に移築嵩上し、拝殿前広場を広くし併せ神與庫も建て、境内の総合整備を行い名実共に都心にふさわしい社頭となった。 |
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所在地
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〒460-0003
愛知県名古屋市中区錦3-22-21 |
TEL
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052-971-1113 |
FAX
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052-971-1253 |
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